そして、白装束に身を包み、麻糸で編んだわらじを履き、杖となる麝香の木の枝を手にし、少量の非常用としての乾燥食と山登りに必要な装備を入れた背負い子を背負い、出発した。
道という道はどこにもない。ただひたすら草木の生い茂った急な斜面を上がっていく。
奥へ奥へと入っていく。
神山へ入ってから1週間が経っていた。
鬱蒼とからみつくように茂っている樹木の間から僅かに見れる空。太陽と星を頼りに麻依は進む。樹木が途切れた山頂付近にあるという氷結洞を求めてひたすら進む。
その氷結洞を通り抜け、クレーター部分に出るのである。
そこは周囲を切り立った絶壁で囲まれ、絶対不可侵とされている神山の中で最も神聖な領域である。
時の止まったようなそこは、常に薄もやで覆われている。
そこには空を映す澄みきった水を湛えた池がある。そこに神獣は水を飲みにくると言われていた。
「ここまで無事来られたけど・・・・」
真っ青な青空を映している真っ青な湖。
ようやくたどり着くことができたそのその湖の淵。
が、周囲を見渡しても神獣どころか、小動物さえいない。
静まりかえったそこには、湖面を翔てくるやさしい風以外何もないようだった。
しばらくその風景を見つめていた麻依は、背負子を降ろすと静かにその淵に正座した。
そして両手に一つずつ翠玉を握ると、その姿勢のまま自分の両横
の地に親指と人差し指を付け、瞑想状態へと入る。
そうすることによって、翠玉を通し、地の声を、自然の声を感じ取ることができるのである。
ゆっくりと時が過ぎていった。
麻依はまるでその風景の一つに溶け込んだかのようにじっと座り続け、誰とはなしに呼び続けていた。
自分の存在を感じ応えてくれる存在に、全身全霊で呼びかけ続けていた。
「あら?」
ふと麻依は自分の顔に冷たい何かが触れたような気がしてそっと目を開けた。
「雪?・・・・・こんな季節に・・雪が?」
見上げると空から真っ白な雪が舞い降りてきていた。
思わず麻依は手にしていた翠玉を膝の上に置くと、両手を合わせて雪を受ける。
綿毛のようなその雪は、麻依の体温ですうっと溶けていく。
「これじゃいつまでこうしていたって手に中には溜まらないわよね。」
それでもいつのまにか彼女の周囲はうっすらと雪化粧がほどこされていた。
「いくら神山だといっても、こんな夏に雪が見られるなんて思ってもみなかったわ。」
牡丹雪が粉雪に変わってきていた。岩陰にでも身を寄せようと、立ち上がろうとした麻依は、立ち上がりざま、草の上に積もった雪に滑って転ぶ。
「きゃっ・・」
思わず手をついたその手は、ちょうどそこに鋭い角を持つ石でもあったのか、血がにじみ出ていた。
(あらら・・・ここまで来るのにあちこち傷だらけになっちゃって、これよりひどい傷もあちこちあるから、このくらいどうということもないけど、まさかここで手のひらを切るとは思わなかったわ。)
傷口を洗うため、麻依は湖の水を傷ついてない方の手ですくい、血を流した水が、湖の中へ流れ込まない位置で傷口にかける。
傷口を洗い流し終わり、そこにしゃがみ込んで背負子の中から布を取り出そうと手探っている麻依の背中をぽんぽんと軽く叩くものがいた。
「え?」
振り向いたそこに真っ白な猫がいた。
(ね、猫?・・・さっきまで動物の気なんてなかったのに・・・)
そう思いつつ麻依は、その猫の頭を撫でようとそっと手を差し出す。
「猫ちゃん、どこから来たの?ひょっとして神様のお使い?名前はあるのかしら?」
手のひらの傷のことなど忘れて麻依は、うっかり傷をした手で頭を撫でていた。
「あ・・ご、ごめんなさい、私の血がついちゃったわ。」
痛みもさほどなく、血も洗い流した時点で止まったと思えたのだが、どうやらまだ多少にじみ出ていたらしい。その白猫の頭の毛に麻依の血がうっすらついていた。
麻依は慌てて再び湖の水をすくうと、白猫の頭にかける。
「契約は成された。」
「え?」
不意に白猫から人の言葉、いや、直接麻依の頭に話しかけてくる声があった。
「一度目の血の契約は地精が介し、二度目の契約は水精が介し、そして、三度目の契約は・・・」
「え?」
そこで言葉を切り、数瞬間を置いたのち、白猫は、嬉しそうな笑顔で、麻依のその傷口を舐めた。
「私に名を、巫女殿。」
「名前?あ・・じゃー、ゆきというのはどう?」
思いがけない一連のその出来事に、麻依は何が何だかわからないまま返事をしていた。深く考えもせずに。
「ゆき・・雪が降ってるからか?」
「え、ええ。雪のように真っ白だし、雪と一緒に表れたから。・・いけないかしら?」
「なんとも単純な思いつきだが・・・・まー、いいだろう。」
「あ、ごめんなさい。簡単すぎよね。じゃ、もっと真剣に考えるから。」
「いや、それでいい。」
「え?いいの?」
「純粋に思い浮かんだ名だ。悪くない。」
「あ、あは♪・・で、さっきの猫さんの言葉だけど、契約は成されたって?」
白猫は、麻依のその言葉に、大きく目を見開き、呆れたように暫く彼女を見つめていた。
「はははは♪楽しい♪愉快じゃ♪巫女殿。そなたはここに、神獣を求めてやってきたのではないのか?」
「え?・・あ・・じ、じゃー・・・」
「楽しい人の娘(こ)だ。ますます気に入った♪では、最後の契約だ。神湖(かむこ)へ共に入ろうぞ。」
「神湖・・あ、ああ、この湖のこと?」
「そうだ。それとも雪が降りしきる寒さの中では入れないと?」
「いいえ!それは大丈夫です。真冬であろうとも禊ぎに入水はいたしております。」
「そうか。では、まいれ。それで巫女殿とわたしとの主従関係は確固たるものとなる。」
「そういえば、巫女殿の名は?」
「あ、そうね、まだだったわね。私、麻依というの。」
「麻依か・・では、私を抱いて湖へ入ってくれ。」
「はい。」
麻依は履いていた草鞋をぬぎ、白猫を抱いて、身の切れるような冷たさの水の中へと入った。
岸辺の浅瀬から中央へと歩いていく。
そして、水位が肩までのほどのところで行ったとき、不意に湖水が躍り上がった。
「きゃあっ!」
その驚きで思わず抱いていた白猫を離してしまった麻依は、目の前の光景に驚いた。

「も、もしかして、あなたが、白猫の・・ゆきの本性?」
「そうだ、巫女殿。」
目を見開いて白蛇のようでもあり、竜のようでもあるその生物を麻依はじっと見上げていた。
「最後の契約をする前に、巫女殿に言っておきたいことがあるのだが、いいか?」
「え、ええ。」
「巫女殿はこことは異なる世界で、世界を救う運命の男女というカギを担った。」
「え?」
麻依を見据えたまま、話し始めた白獣を麻依は驚きの目で見つめる。
「その時の記憶を有し、今その時の運命の男に再会したいが為、時を操る神獣を求めてここへ来た。」
麻依は返事も忘れ、じっと白獣を見つめていた。
「巫女殿は、自分のその記憶の中での前世が1つ欠けていることにはまだ気付いていないであろう?」
「え?・・1つ欠けてるって?」
「そうだ。」
白獣は真剣な表情で話す。
「運命の男女として一生を終えたその生の次は、今あるこの世界に転生したと記憶しているであろう?海賊としての生涯、その生で出会った男は、今巫女殿が会いたいと願っている男の前世。」
「え、ええ、そうですけど、違うんですか?」
白獣は意味深な笑みを浮かべて続けた。
「その前に一つある。いや、巫女殿にとっては2つの生か?」
「え?2つ?」
「そう、海賊としての生を途中で断たれたが、あの世へは行かず、人魚として留まった2つの生で終えた生涯。」
「え?・・・途中で断たれて人魚になったの?」
「そうだ。この地での幾たびかの転生は、すべてそこにつながっている。かの地でのあの悲劇を繰り返さぬよう、いや、できることなら同じ運命を辿るような者たちを生み出したくないという気持ちが巫女殿とそしてその男とのこの地での転生を計っていたと言ったらどうする?」
「どうするって・・・」
麻依は考えていた。というより、あまりにも予想だにしなかった白獣の言葉に、驚いていた。
「でも、そうだったとすると、どうなるの?」
「私は巫女殿が願った時操の幻獣だ。」
「え?ホントに時操の?」
「そうだ。しかし完全ではない。」
「え?」
「私が操作し行けるところは過去のみだ。」
「それはかまわないわ。過去で十分よ。」
「そして、過去の流れの中に、今言ったかの地に留まっている強い意識がある。」
「それって、もしかしたら、引きずられるかもしれないってこと?」
「さすが察しがいいようで、話がしやすい。おそらくは・・・巫女殿の運命の男が亡くなった後にはなるだろうが。」
「・・・・」
麻依はしばし考える。
「いっちゃんがあの世へ旅立ってから、過去へ呼び戻される・・ううん・・引き込まれるということ?」
「一方的にではないが、巫女殿の意思があればのことだ。時の流れに乗って、かの地、過去からその呼び声は、年々強くなってきておる。」
「呼び声・・・・それは私だけでいいの?いっちゃんは?」
「いっちゃん、それが運命の男の名か?」
「あ、そ、そう。愛称だけど。」
「光と闇の戦い、それを封ずるカギとなるのは、巫女殿の巫女としての力の目覚めと、何も恐れず何にも屈しない2人の血を引く人物だ。」
「私といっちゃんの血を引く・・それは、あの時の?」
「そうだ。定期決戦となってしまった光と闇の戦いを今後止められるかどうかは分からないが、かの地の時の流れは、それを欲しておる。異世界という障壁を複雑に絡ませた時の流れがそれを欲しておる。それはその強い意志なのか、それともかの地の意思なのかは分からぬが。」
「そ、そう・・・・。時の流れにそんなにも影響を与えてるの、その意思は。(それっていっちゃんの意思よね。そりゃ私もそうなったらいいなと思ったし、思ってもいるけど。)」
「故に、私と最終契約を結ぶのならば、必然的に、その運命も付随することになるが・・よいのか?」
「いいわよ。」
「は?」
即答した麻依に白獣は驚く。
「だって、結局は逃れられない運命になるのよ。それなら逃げても無駄。逃げるよりこっちからそのつもりでいけば、打開策はそのうち見つかるわ。」
「見つからなかったらどうする?」
「その時はその時よ。解決策が見つからなかった場合でも、世界は変わらないわ。」
「まーな。」
「おそらくかの地、かの時代へ呼ばれるのは、巫女殿の運命の男がこの世を去ってからだと思われるが。」
「そうなの?いっちゃんと一緒に過去へ行くんじゃないの?」
「これは私の予想だが。そして、これは巫女殿に従う条件なのだが。」
「なーに?」
「このこと、その男には一切話さぬこと。」
「え?話しちゃだめなの?」
「私の主は巫女殿一人。話せば私はその男を殺さなければならない。私の言葉は主たる巫女殿で留まらなければならない。」
「そ、そういうものなの。・・・・・いっちゃんにばれずにすむかどうか自信ないんだけど・・・私から話さなければ、約束は守ったことになるわよね。」
「な、なんだ、それは?」
「だって、そういう人なのよ、いっちゃんって。」
しばし白獣は麻依を見つめていた。
麻依もまた白獣をじっと見つめていた。
「わはははは♪楽しいぞ、巫女殿。分かった。委細承知した。今より、我が主は巫女殿だ。普段は先ほどのように白猫でおるからそのつもりでいてくれ。」
「わかったわ。よろしくね、ゆき。」
ふっと白獣の姿は一瞬にして麻依の目の前から消え、その代わり彼女の両手には、あの白猫がいた。
白猫は無邪気に一声鳴いてから、テレパシーで話かけた。
「じゃ、麻依、山を下りて巫女長から町へ出る許可をもらおうよ♪」
「ええ、そうしましょ♪」
白獣のときの威厳のある口調から、親しみを込めた口調へ替えた白猫に、麻依はにっこりと笑って返事をした。
「あら?いつの間にか雪も止んだのね?」
真っ青な空と降り注ぐ夏の陽射し。
そのまぶしさに目を細め、しばらく青空や光を弾いて輝く雪溶け水の水滴で身を飾っている緑の木々の美しさみ目をやってから帰路についた。